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第96代天皇。徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の皇太子に立ち、文保2年(1318年)に同天皇からの譲位によって31歳という壮齢にて即位。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。大覚寺統内部では当初より後醍醐天皇は傍流、中継ぎとして認識されており、その即位は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王成人までという条件付のものであった。この中継ぎという立場から後醍醐の子孫への皇位継承、後醍醐自身の治天の君就任は想定されておらず、後醍醐天皇は不満を募らせた。それが、その裁定を下した鎌倉幕府への反感へとつながってゆく。
正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して六波羅探題が後醍醐の側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。この変では、幕府は天皇には何の処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都の寺社に赴いて寺社勢力と接近する。しかし、この頃から大覚寺統を支持する公家の間で天皇派と邦良親王派への分裂が見られ始め、後者を持明院統側や幕府が支持したために天皇側は窮地に立たされる。そして邦良親王が病死した後には退位への圧力が一層強まる事となった。元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽動座を決断、三種の神器を持って御所を脱出した上で挙兵し笠置山(現・京都府相楽郡笠置町内)に篭城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の変と呼ぶ。
天皇は翌元弘2年/正慶元年(1332年)隠岐島に流罪となり、幕府は邦良親王の次に予定されていた持明院統の光厳天皇を替わりに即位させる。この時期、後醍醐の皇子護良親王、河内国の楠木正成、播磨国の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年/正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族の働きで隠岐島から脱出し、伯耆国船上山(現・鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が天皇方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。
後醍醐天皇は、延喜の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐天皇の治世を理想としていた。天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、醍醐にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。
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